「弟のことを喜べない兄」   04−06−20
                   ルカ15:25〜32

 徴税人や罪人たちが、イエスさまの周りに集まっていました。
ファリサイ派の人たちは、「罪人たちを迎えて食事まで一緒にして
いる」と不平を言います。そんな不平を言う人たちに向かって、
イエスさまは、「見つかった羊」、「見つかった銀貨」、「帰ってきた
息子」の話をされました。
 これらの話は、不平を言うファリサイ派の人たちに語られた話でした。
15章では、一緒に喜ぶことが繰り返し語られています。イエスさまは、
「自分の周りでこんなに喜ばしいことが起こっているのだ。だから、
あなたも一緒に喜んでください」と呼びかけておられるのです。

 イエスさまは、父のもとに帰ってきた弟のことを一緒に喜ぶことの
できない兄の姿を示されました。兄は、父から「子よ、お前はいつも
わたしと一緒にいる」と言われるような、幸せの中ですごしていました。
家を出て行った弟は、父と一緒にいることがどんなに幸いなことかを
思い起こし、その幸いを求めて帰ってきました。兄は、ずっとその幸いに
いたのですが、そのことを心から喜んではいなかったようです。そこに、
人の救いを喜べない理由の一つがあったのではないでしょうか。
 自分に与えられている幸いを喜べず、感謝を見失うことは、人の幸いを
喜ぶ心も失うことになってしまう。そして、不平に心を奪われてしまう。
このことは、日常の生活の中でもありがちなことです。

 私たちが、そして教会が、人の幸いや救いを互いに喜び合う心を見失って
いたら悲しいことです。人の幸いや救いを一緒に喜ぶ。そのような豊かな
交わりを持ちたいと思います。そのためにも、自分に与えられている恵みの
数々に心を奪われていたいのです。
 「いつも喜んでいなさい。…これこそキリスト・イエスにおいて神が
あなたがたに望んでおられることです。」
(テサロニケ一5:16)と言われます。
 それは、無理にでも喜ぶようにと言うのではありません。
 
すでに、私たちがいつも喜んでいられるような大きな恵みの内に
置かれているから、こう言われているのです。